【現実は厳しい】大奥の意外と知られていない裏事情…想像よりもディープな世界だった…

大奥の意外と知られていない裏事情
想像よりもディープな世界だった…

 

大奥とは

フジテレビ系列で放送され大反響を呼んだ「大奥」。

大奥とは江戸城に存在した
将軍家の子女や正室、奥女中、御殿女中たちの居所
あるいは、江戸時代の大大名家の奥向の別称でもあります。

初代将軍・徳川家康の時代から
江戸城に「大奥」と呼ばれる区画は存在していました。

しかし当時は、政治を行う場である「表」と
城主とその家族の私的な生活の場である「奥」の境界が存在していなかった。

この境界が江戸城に現れたのは
元和4年(1618年)に2代将軍・徳川秀忠が「壁書」を制定した時です。

以後、本丸は幕府政庁の「表」将軍が政務を執る「中奥(奥)」
将軍の私邸「大奥」に区分された。

3代将軍徳川家光乳母・春日局によって組織的な整備がなされていき
こうして現在知られる形の大奥に整えられていった。

今回はそんな大奥においてドラマでは描ききれなかった裏事情を紹介します。

大奥の区画

大奥は大別して広敷向・長局向・御殿向に区画される。

■広敷向
広敷は大奥の玄関口である。
広敷には男性の広敷役人(広敷用人)がいたため、
御殿との間の錠口、長局との間の七ツ口によって仕切られていた。

七ツ口は、女中たちの部屋方や商人たちが用いていたが、
七ツ時(午後4時)に閉められたためにこの名が付いた。

■御殿向
将軍の寝所である御小座敷、御台所居所、
「千鳥之間」、「呉服之間」といった大奥女中詰所などがあった。

御台所の居所は、時代によって「松御殿」、「新御殿」などと呼ばれていた。
歴代将軍の位牌がある「御仏間」や「御対面所」も、御殿にあった。

■長局向
奥女中たちの2階建ての居所である。
一之側から四之側までの4棟に加え、東長局、御半下部屋があり、
格式に応じて一之側が上臈御年寄や御年寄、二之側、三之側が
その他の御目見以上の女中、四之側がお目見え以下の女中たちに配分された。

大奥のしきたり

大奥の門限は午後6時と決められており、
これ以降の出入りは何人も禁じられていた。
春日局でさえも許されなかったらしい。

正月になると新入りの女中は全裸になって裸踊りをするしきたりがあった。
これは刺青をしていないかの身体検査が目的だった

男子禁制の大奥だったが、年に1回、節分の日だけは男性が豆まきにやってきた。
女中たちはこの男性を薄い布団で包み、
歌を歌いながら胴上げしたり撫で回したりして遊んだらしい

将軍と女中の夜の営みに聞き耳を立てる「お添い寝役」という仕事があった。
これは女中のおねだりを防ぐためだったらしい

 

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